ボケた秀吉が文禄・慶長の役を引き起こしたのか②

欧州の大国に対する危惧が処刑された信徒の悲劇を生む!?

やがてスペインが推し進める手口は国内でも噂となって広がることになる。スペインが日本を植民地化しようとしているといった話は秀吉の耳にも入り、天正15年7月24日(1587年6月19日)にバテレン追放令を発布するに至るのである。九州征伐を控えていた秀吉は、キリシタン大名たちの絆の強さを危惧した。

近世代日本国民史と著者の徳富蘇峰(1863年〜1957年、写真左・右上/国立国会図書館蔵)とイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエル銅像(1506年~1552年、写真右下/大分県・公益社団法人ツーリズムおおいた蔵)

ただ、南蛮貿易での利益を重要視していたこともあり、大規模な迫害はされなかった。ところが文禄5(1596)年、ひとつの事件が引き起こされた。サン・フェリペ号事件と呼ばれるこの事件は、メキシコを目指して航海していた同船が土佐(現在の高知県)に漂着したことが発端となった。徳富蘇峰が大正から昭和の戦前ころに記したとされる近世日本国民史によると、取り調べのために派遣された奉行のひとり、増田長盛が積み荷などを没収しようとしたところ、憤りを感じた船員たちは「スペインは日本とは比較できないほどの広大な国だ。その国王が宣教師を世界中へと派遣し、布教を広めている。これは征服のための一環であり、その国や土地に住む民衆を信徒としてから内応させ、いずれは兵を送り込む」という主旨のことを告げたと記されている。



長盛によってこの内容は秀吉に報告された。その結果、キリスト教を警戒した秀吉は同年12月8日、先のバテレン追放令に続き禁教令を発布。京都や大坂にいたフランシスコ会のペトロ・バウチスタなど宣教師3人と修道士3人、日本人信徒20人が捕縛されてしまう。やがて彼らは長崎に送られ、慶長元年12月19日(1597年2月5日)に処刑されてしまうのである。ただ、長盛とサン・フェリペ号の船員とのやり取りについては近世日本国民史(徳富猪一郎著、号:蘇峰)のみの記述であり、当時の資料には記されていない。ゆえに真偽のほどは不明な部分もあり、いくつかの説が立てられているようだ。

いずれにしても、スペインが世界をその支配下に治めようとしていたことは事実であり、東南アジアも狙われていたことは間違いない。明国を制圧したあとは日本と考えるのは、ごく自然の成り行きだったといえるだろう。スペインが明国を植民地とすれば、当時明国の支配下にあった朝鮮半島もそうなってしまう。このことは日本への前線基地をスペインに許すこととなり、彼らが大航海をして本国より攻めてくること以上に危惧しなければならない事態でもある。

こうした危機的な世界情勢を睨めばこそ、秀吉は明国が支配される前に朝鮮半島を、そして明国自体を平定しようと考えたともいえそうだ。そうであれば秀吉が引き起こした文禄・慶長の役は、東アジアの防衛線を作るためであり、決してボケた老人の欲望ではなかったとも考えられるだろう。

 

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