妖怪と戦った男~稲生物怪録②

稲生武太夫は実在したのか、その足跡を辿る

広島市東区山根町の国前寺には、妖怪から贈られた木槌があるとか(写真左上)。稲生家代々と武太夫の墓がある本照寺(写真右上)。広島市中区稲荷町には火災除けの神様としても信仰されている稲生神社が再建されている(写真下)。

 

稲生物怪録の主人公である稲生武太夫は、本当に実在していたのだろうか。武太夫の足跡を訪ねると、その痕跡は広島市にあった。

稲生武太夫は、享保17(1732)年、備後布野郷の農民だった武右衛門の長男として生まれた。幼名は平太郎。16歳で怪力を発揮。家督を継いだときには、浅野藩主の吉長公より「御切米八石三人扶持」が与えられた。平太郎のところに妖怪が出現したのは、この頃のことである。

宝暦8(1758)年、「御白下ぇ引越被仰付」となり、三次から広島へ出向く。50年余りを勤め享和3(1803)年12月20日、享年70歳。当時としては長命な生涯を送り、この世を去った。広島市中区小町の本照寺には稲生家代々の墓があり、稲生太夫と刻まれた墓石がその隣にある。



稲生家の屋敷があった跡地(三次市三次町)に建立された『稲生武太夫碑』の裏面に刻まれた撰文によると、宗恒公から諸国を遍歴して武術修行をするよう命じられた。その道すがら妖しいことを鎮め、懲らしめたと記されている。稲生物怪録の最後の場面にも出てくるが、平太郎は魔王から妖怪を鎮める霊力が備わった木槌を授かっている。各地でもののけを鎮めていたのは、この木槌を使ってのことだろうか。その評判は近隣の諸藩にも伝わっていたという。そうした神がかり的な能力を持った武太夫ゆえ、広島市中区稲荷町の『稲生神社』の霊神として祀られている。

稲生神社は、元和5(1619)年に浅野氏が広島入府の際に勧請した神社で、豊受大神、大国主命が祀られている。享保年間の広島大火災の折には稲生神社と世話をしていた大工の忠七の家が焼けずに残ったことから火災除けの神様としても信仰されている。しかし、昭和20(1945)年8月6日の原爆投下によって、神社は焼失してしまった。人類がつくった最強の兵器は、神通力をも消し去ってしまったのだ。

平太郞が魔王からもらって、生涯肌身離さず持ち歩いたという木槌は、現在、広島市東区山根町の『国前寺』に伝わる。国前寺には、稲生武太夫の記念碑もある。

 

※本記事は、過去に時空旅人(朝日新聞出版社/当時)にて掲載し、それを再編集したものです。