ボケた秀吉が文禄・慶長の役を引き起こしたのか①

秀吉の天下統一と当時の日本の国内事情

天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長は京都の本能寺で明智光秀の謀反により、49歳の生涯を終えた。その光秀を討ち取り、天下人となったのが羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉だ。立身出世で知られる秀吉は、類まれなる機転の早さと人心を惹きつける魅力、加えて恵まれた家臣団の力をもって、瞬く間に戦乱の世を統一する偉業を成し遂げた。戦国時代を終わらせた秀吉の功績は大きいにもかかわらず、なぜ狂気の老人というような風評が囁かれてしまうのか。それは晩年に引き起こした朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役が大きく関与しているといっていいだろう。

広大な敷地が当時の城の大きさを物語る。天守閣跡地から一望できる玄界灘の向こうに、秀吉が大軍を送った朝鮮半島がある。

この時代、天下一の城として知られたのは大坂城だが、秀吉はこの出兵のために肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市)に、これに次ぐ巨大な城・名護屋城を築いたのである。玄界灘を望む高台に構えたこの巨大な城の向こうには、壱岐や対馬を挟んで朝鮮半島がある。秀吉はこの天守閣からいったい、何を見ていたのだろうか。

定説では、天下統一を成し遂げた秀吉がその野望を明国の制服にまで広げ、2度にわたって朝鮮に出兵、これにより国内の諸大名は疲弊することになり、秀吉の政策を進めた石田三成と徳川家康が対立。やがて天下分け目の戦いといわれた関ケ原の合戦を引き起こすことになる、というものだ。国内統一だけでは飽き足らず海外にまで目を向けた秀吉の暴走、という見方もあり、耄碌した老人の欲望が引き起こした戦乱といった声を聞かれた方もいるのではないだろうか。日本国内だけに目を向けると、こうした説が囁かれてしまうこともうなづける。しかし、当時の世界情勢を見渡すと、違った景色が見えてくることも確かなのだ。



この時代、世界ではスペインがその勢力を拡大し、アジア諸国をその支配下としていた。現在のフィリピンに総督府を置いたスペインは、虎視眈々と明国をその支配下に治めるべく狙っていたに違いない。国内を統一した秀吉にすれば、明国の次は日本へ進出してくるであろうという予測をする。その予兆ともいえるものが、日本への宣教師派遣だったといえる。誰もが特徴的な肖像画で知っているであろうフランシスコ・サビエルこそ、その先駆けであった。天文18(1549)年8月15日、ザビエルは鹿児島に上陸、以後日本でのキリスト教布教に尽力する。日本やインドなどで宣教を行ったサビエルは、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれており、カトリック教会の聖人としても知られている。

サビエル自身は日本での布教は2年と短く、その意志はルイス・フロイスらに引き継がれていく。キリスト教の布教という側面で考えたのであれば、このこと自体は偉業として数えられることであろう。ただし、当時のスペインはこの布教活動を世界進出の先駆けにしていた。それは、領民がキリスト教に改宗するとそこへ占領軍を派遣、植民地化を進めるというものだった。身分制度が色濃かった日本では、神の前ではみな平等であるというキリスト教の教えが広まることは当然といえば当然のことであった。本能寺の変が引き起こされた天正10(1582)年には、その信者数は15万人を超えたといわれており、当時の情報伝達を考えれば驚異的なスピードといえよう。

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